【体験談】切迫流産・切迫早産・大量出血の末の出産!母親になれた喜び
出産に対して周囲は「若いから大丈夫よ。」「何の心配もない。」と口をそろえて言いました。母親学級でも特に何の注意もされていなかった…と思います。
そんな反応に流されるように抱くのは、「出産って、簡単なものなんだ。」という冷めた感情でした。
切迫流産を医師から指摘されて数か月が過ぎ、変わらずお腹の中で育ってくれている命に感謝の気持ちはありましたが、子どもへの愛情というにはほど遠く母親になりきれていなかったように思います。
この記事の目次
切迫流産の危機!やっと芽ばえた命への想い
妊娠がわかってから数週間、職場で出血してすぐさまタクシーで病院に向かった際に言われたのが「切迫流産」でした。
幸いにも数週間で容態は落ち着き、普段とほとんど変わらない生活が出来るまでになります。
赤ちゃんの雑誌を読んだりベビー用品を買いそろえたり…それはつかの間の楽しい妊婦生活でした。
この頃には日々、大きくなりつつあるお腹を眺めて、命への愛情を抱けるようになります。少しずつですが、私の中で母親の感情が芽ばえつつありました。
再びの試練は、切迫早産!やり場のない感情にただひたすら涙した日々
状況が一変したのは8カ月に入ったばかりの頃。
検診で「おなかの赤ちゃんが下がってきている。」と言われました。切迫早産の危険があるということで、はり止めの薬を飲み始めます。「またか。」と思いました。
切迫流産の危機を脱してようやく母親としての喜びを感じ始めていた矢先に、また?どうして私だけとの思いが頭から離れません。
周囲から「大丈夫」「心配ない」とどれだけ言われたことでしょう。
やり場のない怒りと悲しみを、ただひたすら涙を流すことで発散させるしかありませんでした。
その後、3週間ほど入院することになりますが、病室でもほとんど泣いていたように思います。妊娠中は幸せに過ごすのが一番だと、雑誌に書いてあったにもかかわらずです。
病室の本棚にはきれいな笑顔の妊婦さんが膨らんだお腹を優しくなでていました。入院中、一度も手に取ることが出来なかった雑誌…開く勇気など無かったのです。
やっと迎えた出産なのに…緊急に手術をしなければ助からない
ネガティブな感情は時間が解決してくれました。
夜の11時くらいだったと思います。痛みが規則的に来るようになりました。出産の長い戦いの幕開けです。
切迫早産だからすぐに生まれるのかなと勝手に考えていましたが、そんなことはありませんでした。
分娩台に上がることには再びの日暮れ、丸1日かかっての出産です。分娩台での記憶はほとんどありません。体が疲れすぎていて痛みすら感じませんでした。
覚えているのは赤ちゃんに会えた時の感動だけ。赤ちゃんに対抗するかのようにわんわんと声をあげて泣きました。
喜びもつかの間、先生と看護師さんがただならぬ気配に―
「いいえ…胎盤が…」
「胎盤が?」
「胎盤が出てこないの…」
「??」
よく意味を理解できませんでした。産んでしまえばもう安全だと思い込んでいたのです。瞬間、目の前の天井がぼやけ始めます。
「先生!大変です。」
「血圧が…」
冷たい分娩室には機械音が響きます。その音を聞いて、何かただならぬことが起きているのだと知りました。
胎盤が子宮にはりついているために出血量がひどく、すぐさま手術が必要な旨を説明されました。
視線の片隅に産まれたばかりの我が子が映ります。ピンクの毛布にくるまって何が起きているかもわからず、足をばたつかせていました。
このとき確かに、生きたいと強く思いました。この子と一緒に生きていきたいと。誰かのために生きたいと思ったのはこの時が初めてです。
母親になることが出来ない自分…試されていたのかもしれない
今になって思うのは、試されていたのではないかということ。
順風満帆な出産ではなかったからこそ、命の誕生が尊いものだと知りました。頭で理解するのでなくそうだと感じたのです。
逆に言えば、これくらいの試練が無ければ私には理解できなかったのではないか?母親になれなかったのではないか?とも思います。
息子と一緒に笑い合える毎日が何より大切です。母親にしてくれてありがとう。
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